意宇郡 郷里驛家
意
宇
郡。
合はせて郷十一。里三十三。餘戸一。 驛家三。 神戸三。里六
母
里
郷 本の字は文里。
屋
代
郷 本の字は社。
楯
縫
郷 今も前に依りて用ゐる。
安
來
郷 今も前に依りて用ゐる。
山
國
郷 今も前に依りて用ゐる。
飯
梨
郷 本の字は云成
舍
人
郷 今も前に依りて用ゐる。
大
草
郷 今も前に依りて用ゐる。
山
代
郷 今も前に依りて用ゐる。
拜
志
郷 本の字は林
宍
道
郷 今も前に依りて用ゐる。
以上一十一、郷別に里三。
餘戸里
野城驛家
黒田驛家
宍道驛家
出雲神戸
賀茂神戸
忌部神戸
意宇と號くる所以は、國引き坐しし八束水臣津野命、詔りたまひしく、「八雲立つ出雲の國は、狹布の稚國なるかも。初國小く作られり。故、作り縫はな」と詔りたまひて、「栲衾志羅紀の三埼を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太(鰓)衝き別けて、波多須々支(幡薄)穗振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黑葛闇耶闇耶(繰るや繰るや)に。河船の毛曾呂毛曾呂に、「國來、國來」と引來縫へる國は、去豆の折絶よりして、八穗米支豆支の御埼なり。かくて堅め立てし加志(杭)は石見國と出雲國との堺なる、名は佐比賣山、是なり。亦、持ち引ける綱は。薗の長濱、是なり。亦、「北門の佐伎の國を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穗振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黑葛闇耶闇耶に。河船の毛曾呂毛曾呂に、「國來、國來」と引來縫へる國は、多久の折絶よりして、狹田の國、是なり。亦、北門の良波の國を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穗振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黑葛闇耶闇耶に。河船の毛曾呂毛曾呂に、「國來、國來」と引來縫へる國は、宇波の折絶よりして、闇見の國、是なり。亦、高志の都都の三埼を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穗振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黑葛闇耶闇耶に。河船の毛曾呂毛曾呂に、「國來、國來」と引來縫へる國は、三穗の埼なり。持ち引ける綱は、夜見嶋なり。固堅め立てし加志は伯耆國なる火神岳、是なり。「今は國引き訖へつ」と詔りたまひて、意宇杜に御杖衝き立てて、「意惠」と詔りたまひき。故、意宇と云ふ。謂はゆる意宇杜は、郡家の東北の邊、田の中にある塾、是なり。周八歩許り、其の上に木ありて茂れり。
母里郷。郡家の東北三十九里一百九十歩なり。所造天下大神大穴持命、越の八口を平け賜ひて還り坐しし時、長江山に來坐して詔りたまひしく、「我が造り坐して命く國は、皇御孫命、平世と知らせと依さし奉り、但、八雲立つ出雲國は我が靜まり坐さむ國と、靑垣山廻らし賜ひて、玉と珍で直し賜ひて守りまさむ」と詔りたまひき。故、文理と云ふ。神龜三年に、字を母理と改む。
屋代郷。郡家の正東三十九里一百二十歩なり。天乃夫比命の御伴に天降り來ましし、社印支等が遠神、天津子命詔りたまひしく、「吾が淨まはり坐さむと志す社」と詔りたまひき。故、社と云ふ。神龜三年字を屋代と改む。
楯縫郷。郡家の東北三十二里一百八十歩なり。布都努志命、天石楯縫ひ直し給ひき。故、楯縫と云ふ。
安來郷。郡家の東北二十七里一百八十歩なり。神須佐乃袁命、天の壁立ち廻り坐しき。爾の時、此處に來坐して詔りたまひしく、「吾が御心は安平けく成りましぬ」と詔りたまひしき。故、安來と云ふ。卽ち北の海に比賣埼あり。飛鳥淨御原宮御宇天皇の御世、甲戌七月十三日、語臣猪麻呂が女子、件の埼に逍遥びて、邂逅に和爾(鰐)に遇ひ、賊はえて切らざりき。爾の時、父猪麻呂、賊はえし女子を濱の上に斂め置き、大く苦憤りて、天に號び地に踊り、行きては吟き、居ては嘆き、晝夜辛苦みて斂めし所を避ること無し。是く作る間に數日を經歴たり。然して後、慷慨む志を興して、箭を磨ぎ鋒を銳くし、便しき處を撰び居り、卽ち撎み訴へて云ひしく、「天神千五百萬、地祇千五百萬、並びに當國に靜まり坐す三百九十九社、及海若等、大神の和魂は靜まりまして、荒魂は皆悉に猪麻呂が乞む所に依りたまへ。良に神靈し坐しまさば、。吾を傷らしめ給へ。此を以ちて神靈の神たるを知らむ」といへり。爾の時、須臾ありて、和爾百餘、靜かに一つ和爾を圍繞み、徐に率依り來て、居る下從り進まず退かず、猶圍繞めるもみなりき。爾の時、鋒を擧げて、中央なる一つ和爾を刃して殺し捕りき。已に訖へて、然して後に、百餘の和爾解散けき。殺ち割けば、女子の一脛を屠り出しき。仍りて和爾をば殺ち割きて串に挂け、路の垂に立てき。安來郷の人、語臣與が父なり。爾の時より以來、今日に至るまでに六十歳を經たり。
山國郷。郡家の東南三十二里二百三十歩なり。布都努志命、國廻り坐しし時、此處に來坐して詔りたまひしく、「是の土は、止まなくに見が欲し」と詔りたまひき。故、山國と云ふ。卽ち正倉あり。
飯梨郷。郡家の東南三十二里なり。大國魂命、天降り坐しし時、此處に當りて御膳食し給ひき。故、飯成と云ふ。神龜三年に字を飯梨と改む。
舍人郷。郡家の正東二十六里なり。志貴嶋宮御宇天皇の御世、倉舍人君等が祖、日置臣志毗、大舍人と供へ奉りき。卽ち是れ志毗が居める所なり。故、舍人と云ふ。卽ち正倉あり。
大草郷。郡家の南西二里一百二十歩なり。須佐乃乎命の御子、靑幡佐久佐丁壯命坐せり。故、大草と云ふ。
山代郷。郡家の西北三里一百二十歩なり。所造天下大神大穴持命の御子、山代日子命坐せり。故、山代と云ふ。卽ち正倉あり。
拜志郷。郡家の正西二十一里二百一十歩なり。所造天下大神命、越の八口を平けむとして幸ましし時、此の處の樹林茂盛れり。爾の時詔りたまひしく、「吾が御心の波夜志(榮やし)」と詔りたまひしき。故、林と云ふ。神龜三年に、字を拜志と改む。卽ち正倉あり。
宍道郷。郡家正西三十七里なり。所造天下大神命の追ひ給ひし猪の像、南の山に二つあり。一つは長さ二丈七尺、高さ一丈、周り五丈七尺。一つは長さ二丈五尺、高さ八尺、周り四丈一尺。猪を追ひし犬の像、長さ一丈、高さ四尺、周一丈九尺。其の形石となりて、猪と犬とに異なることなし。今に至りても猶あり。故、宍道と云ふ。
餘戸里。郡家の正東六里二百六十歩なり。神龜四年の編戸に依り、一里を立つ。故、餘戸と云ふ。他の郡も、旦、之の如し。
野城驛。郡家の正東二十里八十歩なり。野城大神の坐ししに依り、故、野城と云ふ。
黑田驛。郡家と同じ處なり。郡家の西北二里に黑田村あり。土體の色黑し。故、黑田と云ふ。舊、此處に是の驛あり。卽ち號けて黑田驛曰ふ。今は東、郡に屬けり。今猶舊黑田の號を追へるのみ。
宍道驛。郡家の正西三十八里なり。名を說くこと郷の如し。
出雲神戸。郡家の南西二里二十歩。伊弉奈枳の麻奈子(真愛子)に坐す熊野加武呂命と、五百津鉏々猶取らしに取らして所造天下大穴持命との、二所の大神等に依さし奉る。故、神戸と云ふ。他の郡等の神戸も、旦、之の如し。
賀茂神戸。郡家の東南三十四里なり。所造天下大神命の御子、阿遲須枳高日子命、葛城の賀茂社に坐す。此の神の神戸なり。故、鴨と云ふ。神龜三年に字を賀茂改む。卽ち正倉あり。
忌部神戸。郡家の正西二十一里二百六十歩なり。國造、神吉詞奏しに、朝廷に參向ふ時の御沐の忌玉作る。故、忌部と云ふ。卽ち川の邊に湯を出す。出湯の在る所は、海陸を兼ねたり。仍りて男も女も老いたるも少きも、或るは道路を駱驛ひ、或るは海中を洲に沿ひ、日に集ひて市を成し、繽紛燕樂ぶ。一たび濯げば形容端正しく、再び浴すれば、萬病悉に除こる。古より今に至るまで、驗を得ずといふことなし。故、俗人、神湯と曰ふなり。
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