秋鹿郡 郷里驛家
秋鹿郡
合はせて郷四、里一十二 神戸一。
惠曇郷 本の字は惠伴。
多太郷 今も前に依りて用ゐる。
大野郷 今も前に依りて用ゐる。
伊農郷 本の字は伊努。
以上四、郷別に里三。
神戸里
秋鹿と號くる所以は、郡家の正北に秋鹿日女命坐せり。故、秋鹿と云ふ。
惠曇郷。郡家の東北九里四十歩なり。須佐能乎命の御子、磐坂日子命國巡行し坐しし時、 此の處に至り坐して詔りたまひしく、「此の處は國稚く美好し。國形、畫鞆の如くなるかも。吾が宮は是處に造事らせむ」と詔りたまひき。故、惠伴と云ふ。神龜三年に、字を惠曇と改む。
多太郷。郡家の西北五里一百二十歩なり。須佐能乎命の御子、衝桙等番留比古命國巡行し坐しし時、此の處に至り坐して詔りたまひしく、「吾が御心照明く正眞しく成りましぬ。吾は此の處に靜まり坐さむ」と詔りたまひて靜まり坐しき。故、多太と云ふ。
大野郷。郡家の正西一十里二十歩なり。和加布都努志能命、御狩し坐しし時、この郷の西の山に狩人を立て給ひて、猪犀を追ひて、北の方に上りたまふに、阿内の谷に至りて、その猪の跡亡失せき。爾の時詔りたまひしく、「自然なるかも、猪の跡亡失せぬ」と詔りたまひき。故、内野と云ふ。然るに今の人、猶誤りて大野と號くるのみ。
伊農郷。郡家の正西一十四里二百歩なり。出雲郡の伊農郷に坐しし赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命の后、天甕津日女命、國巡行し坐しし時、此の處に至り坐して詔りたまひしく、「伊農はや」と詔りたまひき。故、伊努と云ふ。 神龜三年に、字を伊農と改む。
神戸里。 出雲なり。名を說くこと意宇郡の如し。
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