仁多郡 郷里驛家
綿打公園からかんな流し跡の棚田
仁多郡
合はせて郷四。里一十二。
三處郷 今も前に依りて用ゐる。
布勢郷 本の字は布世。
三澤郷 今も前に依りて用ゐる。
橫田郷 今も前に依りて用ゐる。
以上四、郷別に里三。
仁多と號くる所以は、所造天下大神大穴持命、詔りたまひしく、「此の國は大きくも非ず、小くも非ず、川上は、木の穗㓨し加布(交ふ)。川下は、河志婆布這ひ度れり。是は爾多志枳小國なり」と詔りたまひき。故、仁多と云ふ。
三處郷。卽ち郡家に屬けり。大穴持命、詔りたまひしく、「此の地の田好し。故、吾が御地の田」と詔りたまひき。故、三處と云ふ。
布勢郷。郡家の正西一十里なり。古老の傳へに云へらく。大神命の宿り坐しし處なり。故、布世と云ふ。神龜三年に、字を布勢と改む。
三澤郷。郡家の西南二十五里なり。大神大穴持命の御子、阿遲須伎高日子命、御須髮八握に生ふるまで、晝夜哭き坐して、辭通はざりき。爾の時、御祖命、御子を船に乘せて、八十嶋を率巡りて宇良加志(慰かし)給へども、猶哭き止みたまはざりき。大神、夢に願ぎたまひしく、「御子の哭く由を告りたまへ」と夢に願ぎ坐しき。その夜、御子の辭通ふと夢見坐ししかば、則ち寤めて問ひ給ふに、爾の時、「御澤」と申したまひき。爾の時、「何處をか然云ふ」と問ひ給へば、卽て御祖の前を立ち去り出で坐して、石川を度り、坂上に至り留まりて、「是處ぞ」と申したまひき。爾の時、其の澤の水沼出だして、御身沐浴ぎ坐しき。故、國造、神吉事奏しに朝廷に參向かふ時、其の水沼出だして用ひ初むるなり。此に依りて、今も產婦、彼の村の稻を食はず。若し食へば、生まるる子已にもの云はず。故、三澤と云ふ。卽ち正倉あり。
橫田郷。郡家の東南二十一里なり。古老の傳へに云へらく、郷の中に田四段許あり。形聊か長し。遂に田に依りて、故、橫田と云ふ。卽ち正倉あり。以上の諸の郷より出す所の鐵、堅して尤も雜具を造るに堪ふ。
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