大原郡 郷里驛家
合はせて郷八、里二十四。
神原郷 今も前に依りて用ゐる。
屋代郷 本の字は矢代。
屋裏郷 本の字は矢内。
佐世郷 今も前に依りて用ゐる。
阿用郷 本の字は阿欲。
海潮郷 本の字は得鹽
來次郷 今も前に依りて用ゐる。
斐伊郷 本の字は樋。
以上八、郷別に里三。
大原と號くる所以は、郡家の東北一十里一百一十六歩に、田一十町許ありて、平原なり。故、號けて大原と曰ふ。往古之時、此の處に郡家ありき。今猶舊のままに大原と號く。今、郡家のある所は、號を斐伊村といふ。
神原郷。郡家の正北九里なり。古老の傳へに云へらく、所造天下大神の神御財積み置き給ひし處なれば、則ち謂神財郷と謂ふべきを、今の人猶誤りて神原郷と云ふのみ。
屋代郷。郡家の正北一十里一百一十六歩なり。所造天下大神の垜立てて射たまひし處なり。故、矢代と云ふ。神龜三年に、字を屋代と改む。卽ち正倉あり。
屋裏郷。郡家の東北一十里一百六十歩なり。古老の傳へに云へらく、所造天下大神、笶を殖てしめ給ひし處なり。故、矢内と云ふ。神龜三年に、字を屋裏と改む。
佐世郷。郡家の正東九里二百歩なり。古老の傳へに云へらく、須佐能袁命、佐世の木の葉を頭㓨して踊躍りたまふ時に、㓨せさる佐世の木の葉、地に墮ちき。故、佐世と云ふ。
阿用郷。郡家の東南一十三里八十歩なり。古老の傳へに云へらく、昔、或る人、此の處の山田を佃りて守りき。爾の時、目一つの鬼來て、佃人の男を食へり。爾の時、男の父母、竹原の中に隱れて居りき。時に竹の葉動げり。爾の時、食はえし男、「動々」と云ひき。故、阿欲と云ふ。神龜三年に、字を阿用と改む。
海潮郷。郡家の正東一十六里三十三歩なり。古老の傳へに云へらく、宇能治比古命、御祖須我禰命を恨みて、北の方、出雲の海潮を押し止げて、御祖神を漂はししとき、此の海潮に至りき。故、得鹽と云ふ。神龜三年に、字を海潮と改む。 卽ち東北、須我小川の湯淵村の川中に温泉あり。號を用ゐず。同じ川の上の、毛間村の川中にも温泉出づ。號を用ゐず。
來次郷。郡家の正南八里なり。所造天下大神命、詔りたまひしく、「八十神は靑垣山の裏に置かじ」と詔りたまひて、追ひ廢ひたまふ時に、此の處に迢次き坐しき。故、來次と云ふ。
斐伊郷。郡家に屬けり。樋速日子命、此の處に坐せり。故、樋と云ふ。神龜三年に、字を斐伊と改む。
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