出雲国風土記 秋鹿郡 『大野津社・那牟社(大野津神社)』
大野津神社は松江市大野町にあり、出雲国風土記には大野津社と記載されています。御祭神は八岐大蛇を退治したことで知られる須佐之男命です。
拝 殿
本 殿
御祭神
主 祭 神 | 須佐之男命 |
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御由緒
大野津神社由来
御祭神須佐之男命
ご由緒
当社は天平五年(七三三年)に撰進れた出雲国風土記に、大野津社と記されており、後の延喜式神名帳にも登記された古社で、古来より里人が奉祝崇敬した名社である。
大野灘は宍道湖北岸の重要な港であり、「津」の名が起こるが、当社は海陸交通の神である。また、農耕の守護神でもあり、干天続きの年には、雨乞神事が行われた。さらに厄除安全の祈願所として、人々の畏敬信仰の深いお社であった。
寛永十二年(一六三五年)五月、秋鹿郡吏だった岸崎時照は蛇骨を拝み崇敬の念を起こしし、大野村中の人々と力を合わせ社殿を建立し、九月晦日を祭日と定めた。
現在は祭神の御神徳を敬仰し年頭に厄災退散・交通安全の祈願を斎行している。
一、特殊神事
雨乞神事
往古より、稲作に大切なものは水である。時々訪れる干天続きの年には、当社の「蛇骨」を湖上に奉斎して雨乞の神事が斎行され、近郷近在の人々が多数参拝して
盛大に行われた。
ここに、昭和九年と昭和十四年に行われた時の記録をもとに、再現してみる。
まず近郷の神職・斎戒して社殿に上り、二夜三日の祈願と称して、三日連続の祈願を行う。この時、社殿に納められている蛇骨を出し、正面に蛇頭を安置する。その前に蛇骨を飾り、神職はそれに向かって大祓祝詞を上げ、祈願する。
三日目の朝には、蛇骨の一部を竹籠二個に納め、鳥居のついた箱形の台に乗せる。四人の供奉員が台を担いで湖岸に運ぶ。待機する四艘の船の一つに安置して、神職と供奉員が同船する。もう一艘は衣裳船で楽師達が乗る。他の二艘には各集落より選出された若者十数人が分乗し、後から参観の人々の船が従った。
太鼓や笛の音が湖上を流れ、漕ぎ手の掛け声も勇ましく、宍道湖上はるか西南を目指し漕ぎ出して行く。やがて船は所定の場所に到着する。ここは宍道湖の南北にある四つの山々を結ぶ線上で、湖底には石の鳥居があると伝えられている。
船の正面、安置された蛇骨の前で神職の祝詞が奏せられる。次に、蛇骨の入った籠は各々、一疋の白木綿でかがられ、静かに湖底に下される。一頻り雅楽を奏した後、神職達や供奉員達は裸体となる。若者達も裸体となり、神職と供奉員の船の両側に漕ぎ寄せ、水桶に水を汲んで神職達に浴びせかける。神職達を乗せた船の漕ぎ手は、逃れようと懸命に漕ぐ。若者達の船は、逃すまいと追い、盛んに水飛沫が飛ぶ。
神職達は激しい水飛沫に息も止まるばかりとなり、悲鳴を上げるようになると、水を浴びせるのを止め、一同は身を拭き、元のように装束や衣装を着け、神社を目ざし、今度は無言のままで帰途につく。
神社の境内が見えるころになると、晴天の続いた空の一角に暗雲が湧き起こり、
待望の雨が降り始める。船が神社の横に到着するや、若者達は見物人に水をかけ、
人々は大騒ぎしながら、逃げ散って行く。
こうして、蛇骨は本殿に入り、神職のたちは御礼の祝詞を奏上し、見物人がいなくなって静かになると、神事に参加した人々は互いに御神酒を酌み交わし、賑やかに語り合い、一切の行事を終えた。
しかし、最近では灌漑施設が整い、作付も早くなった関係で干害は少なくなり、近年では、この神事は行われていない。
一、主要年中神事
祈年祭 三月二十一日 夏越祭七月一日
例大祭 十月一日 新嘗祭十一月二十三日
御崎神社と金刀比羅社
歳徳神
境内社
詳細不明大野津神社の御祭神は須佐之男命です。
当社は式内の古社で(今から一千余年前延喜式神名帳登載) 此の地方に人が住みついた古い時代から里人が奉祝崇敬した名社です。
大野灘は大昔から湖北の重要な港であったので「津」という名が起り、当社はまさに海陸交通の守護神でありました。風土記の神話にある内神社の神が大野で狩をされた頃もここから上陸されたであろうし、中世大野城が湖北大野の地に築かれたのも此の港があったからだと思われます。
昔から稲作に最も大切なものは水でありましたが、たまたまおとずれる干天続きの年には当社の「蛇骨」を湖上に奉斎して雨乞のお祭が斎行され、近郷近在の人々が大勢参拝して盛大に行われました。
当社は、かく農耕の守護神として、また、厄除安全の祈願所として古来人々の畏敬信仰の深いお社でもあります。
寛永三年九月五日時の藩主松平直政公が狩の途中社参され、蛇骨上覧のことが旧記にしるされています。昭和九年七月十六日、米国の神道研究者メーソン博士が社参、社伝、「雨乞神事」等を調査、海外に紹介されました。
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