ちょっと寄り道...出雲國神仏霊場『月照寺』
今回は松江市にある山陰のあじさい寺と言われ,大亀伝説や歴代の松江藩主松平家墓所で有名な『月照寺』を紹介します。出雲国神仏霊場の第5番札所、教えに因む文字は『昧』です。
本 堂
月照寺本堂(阿弥陀堂)昭和二十九年の建立で二間半に三間。
本尊阿弥陀如来は、松平直政公の生母月照院の冥福を祈って造立したものである。
堂内には狩野永雲の十六羅漢、本堂外の額は十代定安公の筆である。
本堂の内部
本堂の扁額
御本尊
御 本 尊 | 阿弥陀如来 |
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御由緒
由緒月照寺は、もと禅林のお寺で、洞雲寺と称したが、松平直政公(徳川家康公の孫)が生母月照院の霊牌を安置するため、寛文四(一六六四)年、浄土宗の長誉上人を開基として、蒙光山月照寺と改称復興したものである。第二代綱隆公は父直政公の遺命により廟所を営み、山号を歓喜山と改めた。以来、松江藩主松平家の菩提所ならびに念仏道場として、江戸時代二〇〇年間、松江城下寺院の筆頭の格式を誇り尊崇をうけてきた。
一万坪に及ぶ霊域には、九代にわたる藩主の廟が整然と鎮座し、その廟門には、それぞれの時代の特色がみられ、匠の精魂を傾けた跡が遺憾なく示現されている。また境内には、歴代の藩主ならびに奥方の奉献による刀剣、染織、絵画、仏具などを展示した宝物殿も公開されている。
初代直政公墓所(高真院)
初代直政公御廟松平直政公は将軍徳川家康公の孫にあたり、慶長十九年(一六一四年)大坂(阪) 冬の陣に、十四歳で初出陣。 その見事な武者ぶりは、敵将真田幸村も思わず軍扇を投げて賞賛したという。
直政公は信濃国松本から、禄高十八万六千石で松江に移封された。 富国殖産をめざし、松江藩の基礎をつくった名君であった。 この廟門は「薬医門」の形式をとり、切妻造の屋根の正面と背面に、軒唐破風を付けている。特に、その下の「竹に虎」の彫刻は桃山時代の技法を受け継いでおり、山内廟門中の傑作である。 天井裏に残された墨書や記録によると、延宝七年(一六七九年)に、地元の棟梁(田鹿弥兵衛)によって建てられた。
この廟門は不昧公お抱えの松江の名工 小林如泥の作といわれているが、如泥は不昧公より五年早く文化十年(一八三三年)に他界したので異論もある。
しかし、中央の龍の雄渾な姿や、柱の上部にみられるみごとな葡萄の透かし彫りなど、如泥ならではの感が深い。しかも、この場所は東に翠の松をへだてて、松江城天守を望む境内随一の勝地であり、不昧公が生前より廟所に定めておられたということからも、如泥があらかじめ設計しておいたのではないかと考えられる。七代治郷公(大圓庵)
松平治郷公とは不昧公のこと。茶道不昧流の茶祖として有名である。
十七歳で七代藩主になられ、爾来四十年間、窮乏した藩の財政を建て直すため、治山治水、産業工芸等々の方面で画期的な政策を打ち出し、飛躍的な発展を成し、松江藩中興の祖とも言われた名君である。
また、名器の散逸を防ぐために、千万金を投じて収集に努められ、数多くの名工を保護・育成されたことも特筆できる。
痛恨のミス...治郷公の墓を取り忘れた...!😭😭
八代斉恒公墓所(月潭院)
九代斉斎公墓所(直指庵)
月照院墓所
松江藩初代藩主・松平直政公の生母『月照院』のお墓。寿蔵碑(大亀)
大亀さんがが夜になると暴れまわり人を食うようになったが、石碑を背中に背負わせるて封じたという小泉八雲の随筆に登場します。大亀さんの頭を撫でると長生きができるとも言われています。 寿蔵碑松江藩主松平家七代治郷公(不昧公)は、父、宗衍公 (天隆院・南海公)の願いのもとに、その徳を讃え、寿命長久を祈願するために、この寿蔵碑(生前立てる供養塔)を建立した。石の切り出しは、天明元年(一七八一年) 松江から二十数キロメートルも離れた今の出雲市久多見町の山中において行われ、宍道湖上を舟あるいはイカダで当地まで運ばれた。
石碑そのものは翌年出来上がったが、この年十月、宗衍公のご逝去の日までに建てることができたかどうか不明である。
また、明治の文豪小泉八雲の作品の中で「化け亀」として紹介されているが、台石が亀の形をしているこの石碑は古代中国の思想によって「亀趺碑」と呼ばれている。本当は「亀」ではなく「龍」である。
御霊屋
鐘 楼
書院庭園
織部灯篭と棗形手水鉢千利休から福島正則が譲り受け、勇猛なる家臣だった大橋茂右衛門に伝えた。福島家断絶の後、茂右衛門は松江藩祖松平直政に召し抱えられ筆頭家老となった。後に、七代不昧公が この灯籠と手水鉢を懇望され、松平家の江戸本邸に移されたが、明治維新に伴なう廃邸に当り大橋家に返された。そして茶室大円庵建立に際し、当主大橋貞勝が当寺に寄進したものである。
御朱印
月照寺の御朱印。出雲国神仏霊場の御朱印。茶の湯の水
雷電の碑
雷電は明和四年(一七六七年)信濃国(今の長野県)に生まれ、横綱谷風の内弟子から大関となり、寛政・文化の土俵を飾った。天明八年(一七八八年) 二十二歳の時、松江藩主・松平治郷公(不昧公)に「お抱え力士」として召し抱えられ、不昧公より雷電為右衛門の名前を給わった。二十一年間三十四場所の土俵をつとめ、二百五十八試合の相撲を行ったが、負けたのはわずか十回で、その勝率は古今の相撲史上、第一位である。引退後は力士を連れて各地を巡業し、一時期、松江市内の「御船屋」(今の東本町四丁目、五丁目)にも住んでいた。
月照寺大圓庵
一万坪に及ぶ広大な境内には、初代松平直政公から九代斎貴公に至る藩主の墓である松江藩主松平家廟所(国指定史跡)がある。
ここ月照寺にある茶室は、昭和二十九年に本堂を再建した時に建立されたもので、四畳半本勝手の茶室であり、七代藩主松平治郷公こと不昧公の庵号「大圓庵」より命名されたものである。
前庭の織部灯篭と棗形手水鉢は茶聖利休居士から賎ケ岳七本槍、武将として名高く安芸備後五十万石の城主に任ぜられた福島正則公が譲受け、更に福島正則公の元家臣であり、松江藩の筆頭家老職についた大橋茂右衛門に伝えたものを不昧公が懇願され、永い間江戸の松平本邸にあった。戦後昭和二十五年、廃庭にともない大橋家に返却されたものを、茶室大圓庵建立時に当寺に寄進された、由緒正しきものである。
不昧公の命日(四月二十四日)に近い日曜日には、茶筅供養が営まれる。
松江の茶の湯
松江では、江戸時代から茶の湯は武家の嗜みとされ、代々の藩主もとりくんできした。特に七代藩主の松平不昧は、茶人大名として著名であり、藩内の町民にも茶道を普及させました。
このため、現代の松江でも、多くの家庭で日常的に薄茶が楽しまれ、和菓子の消費量も全国有数であるなど、「お茶文化のまち」として知られています。
小泉八雲ゆかりの地-8
月照寺
月照寺は小泉八雲の大好きな寺であった。 おそらく何回もこの静かな境内に佇んでいた
ことと思われる。夫人の思い出によれば「一番好きです。 私もここに埋めて欲しい。」と言
ったとのことである。 洞光寺とともに著書の中に出てくる。
明治29年8月東大赴任直前にこの寺を訪れたのが最後となった。 この墓所の大亀が夜
な夜な隣の蓮池に飛び込み、 市中を暴れまわったという怪談を紹介している。
『知られぬ日本の面影』 第11章 「杵築雑記」より
LAFCADIO HEARN-8
Gesshoji Temple
It is likely that Hearn paid numerous visits to this temple, and probably walked
frequently in its quiet grounds. He wrote of the monster tortoise: "But the most
unpleasant customer of all this uncanny fraternity to have encountered after dark
was certainly the monster tortoise of Gesshoji Temple in Matsue."
('Notes on Kitzuki' ,Glimpses of Unfamiliar Japan)
松江市
寺号標
入 口
地 図
問い合わせ
所在地 | 島根県松江市外中原町179 |
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TEL | 0852-21-6056 |
HP | 歓喜山月照寺 |
esshoji(at)tx.miracle.ne.jp ※(at)は@に置き換えて下さいとお寺のHPに書いてありましたので...! |
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駐車場 | |
月照寺東林寺駐車場(無料)乗用車20台、大型バス4台 初詣とあじさいの時期には満車の可能性が高いと思います。 |
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御朱印 | 有 |
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