出雲国風土記 意宇郡 『賣豆貴社(賣豆紀神社)』
松江市雑賀町に鎮座する賣豆紀神社は、出雲国風土記に賣豆貴社と記載され、和歌の祖神・下照比賣命を御祭神としてお祀りする古社で、古くから安産の神として信仰されており、歴代松江藩主の内室の懐妊時に霊験を受けたと伝えられています。また、松江藩城下五社の一つとしても崇敬されました。拝 殿
拝殿の扁額 拝殿内の扁額本 殿
御祭神
主祭神 | 下照比賣命 |
---|---|
配祀神 | 大山咋命 木花佐久夜比賣命 |
合祀神 | 天照大御神 豐受比賣命 倭媛命 |
御由緒
特別神社 賣豆紀神社松江市雜賀町売豆紀 鎮座
主祭神 下照比賣命
合 殿 伊勢宫 天照大神 豐受比賣命 倭媛命
沿革 喜式神名帳にのせられた式内社 出雲国風土記に所載 松江城下五社の一社 大正十三年社格も県社に列せられた 松江市松南地区の総産土神(氏神) 伊勢宮は藩祖松平直政公が伊勢神宮の御分霊を奉斎
松江市伊勢宮町から明治三十二年当神社に合殿された
由緒 下比賣命は出雲大社御祭神大国主命の第三の姫神にあらせられる 父神の国土経営をたすけ偉大な功績をたてられ また和歌の祖神とあがめられた 古事記 日本書紀 古今和歌集序文にお名がみえる
安産 病気平癒の守護神 歴代松江藩主 ご内宝懐妊のとき霊験をうけられ また病気平癒の守護にあずかった 更に一円の婦女の懐妊 病気の際にご神徳を仰ぐものが多く 安産 病気平癒の守護神として著名である
主な祭日 元 旦 歳旦祭 六月三十日 大祓祭
二月三日 節分祭 十月三日 例大祭(秋祭)
五月三日 春祭(祈年祭) 十二月三日 新嘗祭
神在祭神迎
十二月九日 神等去出神事
境内社
24社も合祀されている欲張りなお社です。 境内社の狛犬 境内社の手水和歌の祖神碑
"天上における和歌のはじめ" 賣豆紀神社御祭神 和歌の祖神 下照比売の御歌天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統御統に 穴玉はや み谷 二渡らす阿治志貴高日子根の神そ
ウナがせるタマのミスマル 首に掛けておいでになる玉の首飾り
ミスマルに アナダマはや その首飾りの玉の穴を通る紐のようなお姿で
みタニ フタワタらす 谷を二つも飛び越えていらっしゃった
アヂシキタカヒコネのカミそ こちらはアヂシキタカヒコネの神なのです
(『古事記』上巻)
解説
当賣豆紀神社の御祭神シタテルヒメ(下照比売)は、オオクニヌシの娘である。 国譲り神話の中で、高天原から遣わされたアメノワカヒコの妻となるが、夫の葬儀に際し、兄である雷神アヂシキタカヒコネの容姿が亡夫に似ていたため混乱が起こり、それを鎮めるために歌を詠んだと記紀に述べられている。歌の意味は難解だが雷神は蛇体をとることが多く、玉を貫く紐にその姿を比喩したものと、ここでは解しておいた。
紀貫之が書いた古今和歌集の仮名序は、和歌の始祖として、シタテルヒメとスサノオを挙げる。 スサノオの詠は「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣造るその八重垣を」で、三十一文字の短歌の元祖とされる。一方、シタテルヒメの詠は音数の整わない「えびす歌」と評されるものの、天上における和歌のはじめとして重視されている。
いずれにせよ、和歌の始原伝説は、ここ出雲の国と深く関わっている。この碑の建立によって、シタテルヒメの和歌事績は、末長く顕彰されることとなった。
平成二十六年三月十六日 早稲田大学 文学学術院 教授 兼築信行
子宝いぬ
自分の干支の前に立ち 親子いぬを撫でて 安産 無事成長 子授けを祈念してください当神社の御祭神下照比売命(出雲大社の御祭神大国主命の第三の姫神)の広大な「子宝の御霊力」を表象する子宝いぬから御神徳をお受けください歴代の松江藩主ご内室懐妊の折 大神から御霊験を受けられ世継ぎを得られた
出雲大社遥拝所
売豆紀神社の御祭神「下照比売命」の父神「大国主命」と母神「多紀理比売命」が鎮まります出雲大社をここから 遥拝ください 拝礼作法「二礼・四拍手・一礼」伊勢神宮遥拝所
伊勢神宮・皇居・明治神宮を1度に拝めるという社日碑
唐獅子灯篭
病気平癒・諸災祓除の唐獅子灯篭 きわめて稀少な形をもつこの四頭の唐獅子(狛犬)が担う 灯篭は 当神社の御祭神下照比売命の御霊力を表象するとされ 古来 病気平癒・諸災祓除の御霊験あらたかであると伝承されている
祈願時には銀紙を貼り 成就時には金紙を貼って報謝する習わしがある
この狛犬は大正十三年(一九二四年)遷宮記念に寄進の
「構え型」の来待石製「出雲式狛犬」。松江市泉家に生まれ 「昭和の名工」と謳われた新出九一郎の作で銘入りは貴重。
横浜町の氏子森山良之助の寄進。「現代の名工」 須田益在作の奉納に伴い社殿正面から移設し保存展示。
ここ売豆紀坂は、尼子時代から、広瀬から松江に至る重要な出入り口であった。
松江城を築いた堀尾吉晴は築城の途中で亡くなった息子忠氏の子三之助 ( 後の忠晴 )
を忠氏の姉婿野々村河内守に預け、広瀬に住まわせた。 ところが河内守は実子勘解由を
吉晴の養子とし、堀尾家を継がせようと企み、三之介を囲っていた。
三之助の身の危険を察した乳母らは暴風の夜、わずかの侍たちで三之助を部屋から
救い出し、夜を通して広瀬から松江に向けひたすら走り、売豆紀坂で夜が明けた。
急飛脚の知らせを受けた堀尾家の重臣らがこの売豆紀坂で三之助を無事に迎え、堀尾家を継ぎ松江城主となったと伝えられている。
平成二十一年三月
0 件のコメント:
コメントを投稿