あの世とこの世の境界線~出雲国風土記 意宇郡 『伊布夜社(揖夜神社)』と黄泉比良坂
松江市東出雲町に鎮座する揖夜神社は、出雲国風土記にも記載される古社であり、意宇六社の一つに数えられます。主祭神は伊弉冉命であり、黄泉比良坂伝説とも深く結びついています。※ 意宇六社とは...意宇郡に鎮座する神社の中で熊野大社(松江市八雲町)・真名井神社(松江市山代町)・揖夜神社(松江市東出雲町)・六所神社(松江市大草町)・八重垣神社(松江市佐草町)・神魂神社(松江市大庭町)の六社を「意宇六社」という。
※ 出雲国風土記に伊布夜社は在神祇官社に2社、不在神祇官社に1社あり、意宇郡の10番目に記載される伊布夜社を揖夜神社に、31番目を境内社の韓国伊太氐神社、58番目を三穂津姫神社に比定する説があります。
※ 出雲国風土記に伊布夜社は在神祇官社に2社、不在神祇官社に1社あり、意宇郡の10番目に記載される伊布夜社を揖夜神社に、31番目を境内社の韓国伊太氐神社、58番目を三穂津姫神社に比定する説があります。
拝 殿
拝殿内部 拝殿の扁額本 殿
楼 門 修繕工事中の本殿 遷宮の御寄進をお願いされてますよ...5千円以上すると境内に名前が掲示されるそうです...もちろん私も寄進しました。御祭神
主祭神 | 伊弉冉命 |
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配祀神 | 大己貴命 少彦名命 事代主命 武御名方命 経津主命 |
御由緒
〈特別神社〉 揖夜神社御祭神 伊弉冉命 大己貴命 少彦名命 事代主命
御本殿 大社造(御神座は出雲大社と反対向に御鎮座)
境内社 韓国伊太氐神社 三穂津姫神社
御鎮座についての詳細は不明ですが、古事記神代巻には「伊賦夜坂」について記述があり、
日本書紀齋明天皇五年の条に「言屋社」、 出雲国風土記に「伊布夜社」、
延喜式神名帳に「揖夜神社」の記述があり、平安朝以前から広く知られていた古社であります。
古より朝廷の崇敬が篤く、「三代實録」には、清和天皇の貞観十三年に「正五位下」の御神階が授けられた記録があります。
武将の崇敬も篤く、大内氏、尼子氏、毛利氏、堀尾氏、京極氏、松平氏がそれぞれ寄進や社殿の修造を行っています。
また、社殿の営繕は松江藩作事方で行われ、御遷宮には藩主の代参がありました。
當社は出雲国造との関係が深い「意宇六社」の一であり、御遷宮には今でも出雲国造の御奉仕があります。
特殊神事
穂掛祭
祭りの前日に、中海の袖師ヶ浦で禊を修した後、社務所において新米をもって神酒や焼米などの神饌を調理し、当日穂掛榊(稲穂を機に掛け 瓢豇を付ける)を作って七十五か所に捧げ、その神饌をお供えする。
一ツ石神幸祭
袖師ヶ浦の沖にある一ツ石まで神輿を舟に載せてお運びし、禊を修して祭事を斎行する。穂掛祭当日の午後、当社の前灘より神船を出し、多数の船が先曳をなして祭事を執り行っている。本殿内の壁にその様子が描かれている。
遺跡
黄泉比良坂
記紀神話の神産みや大国主の神話に登場する黄泉の国(根の国)との境である黄泉比良坂の比定地が当社の東方の東出雲町揖屋平賀にあり、 石碑が建てられている
御祭神:素盞嗚命 五十猛命
出雲国風土記の意宇郡の58番目に記載される「伊布夜社」に比定される。
天満宮
御祭神:菅原道真公恵比須神社(北側)
御祭神:事代主命恵比須神社(南側)
御祭神:事代主命荒神と石祠
御祭神:左の祠 経津主命 右祠 建御名方命荒神
御祭神:スサノオ 大蛇神御神木
稲荷神社
火守神社
揖夜神社 御仮殿
由緒碑
随神門
鳥 居
意宇六社
意宇六社の一社「揖夜神社」 六社さんと呼ばれる出雲国意宇郡(現松江市の一部)にある、 国造家ゆかりの六社神社の一社として、崇敬されている神社ですが、 古くは『古事記』、『日本書紀』や『出雲風土記』に記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた由緒ある古社であります。
その古い神社としての佇まいについて、嘗て作家の司馬遼太郎氏が当社を訪れ、自著の『街道をゆく』の中に以下のように記載されています。
「どうやらそのあたりはふるくは揖屋(揖夜、言屋)といった界隈のようだった。イフヤという地名は、いったい何語の、どういう意味なのであろう。
車をとめた場所が、たまたま揖夜神社という神社の鳥居の前だった。戦前の社格は県社だが、鳥居をくぐってひろい境内に入ってみると、いかにも出雲の神社らしく社殿その他がひどく立派で、
大きなしめなわの姿なども他地方の神社を見なれた目からすればただごとでなく、ぜんたいに出雲寂びている。
境内のすみに、林とまではゆかなくても樹木のまばらな一角があって、湿った黒い絹のような木下闇をつくっている。その淡い光のなかに祭神もホコラも個性ありげな摂社や末社がならんでいて、その一つ一つに出雲の何事かがにおっている。
それらのなかに、「荒神社」という標柱の出た石のホコラがあった。荒神社(こうじんじゃ)でなく荒神社(あらじんじゃ)。とふりがなが振られていることが、おもしろかった。
アラという呼称は日本の古い姓氏にも多い。安良という文字をあてたりする。太田亮博士は荒氏は「任那帰化族なるべし」などと推量されているが、おそらく南朝鮮の伽椰地方を故郷とする氏族なのであろう。
古代、朝鮮半島の全体もしくは一部を、カラ(韓)、カヤ (伽椰)。 アヤ(漢)、アラなどと呼んだ。とすればこの「荒神社」も韓神をまつるホコラなのかもしれず、すくなくともそんな想像を刺激してくれる。』
当神社の佇まいについては司馬太郎氏が訪問された。四十年前と変わりありません。
平成二十八年三月吉日 揖夜神社
意宇六社 揖夜神社(東出雲町) 熊野大社(八雲町)
神魂神社(大庭町) 八重垣神社
六所神社 (大草町) 真名井神社(山代町)
東出雲町 揖夜神社
出雲地方でも熊野大社(八雲村)と共に最も古く、風土記に「伊布夜(イフヤ)社」と記され、日本書紀、斉明天皇の条に「言屋(いふや)社」の名で登場する。
本殿は大社造りで、五色の八雲、極彩色の神事の障壁画が扉に描かれている。
伝説によれば、男神イザナギは最愛の妻であるイザナミを亡くし、彼女に会いに黄泉の国に向かいます。しかし、イザナミの姿を見てしまったことで、彼女は怒り、黄泉の軍勢を差し向けます。イザナギは千引の岩(動かすのに千人力を必要とするような巨石)を黄泉比良坂に置いて道を塞ぎ、イザナミを追い払いました 神蹟黄泉比良坂伊賦夜伝説地の石碑 天国への手紙ポスト
青人草の、苦しき瀬に落ちて、患へ惚むときに助くべし
神話で、伊邪那岐命が黄泉比良坂のふもとに生えていた桃の実三つを取り、追いかけてきた黄泉の軍に投げつけると、桃の呪力を受けて黄泉の軍 は引き返していきました。
そこで、伊邪那岐命は「桃の実よ、私を助けたように、この世に生きるあらゆる人々が苦しみの流れに流されて悩みごとに呆然となるときに助けてやってくれ」と告げ、桃に意冨加牟豆美命の名を与えました。
この桃の木は、原種の桃と同種の「オハツモモ」です。
石 板
最後にイザナミ命自ら追いきたり大岩をもちて塞ぎ生の國と死の國の境となせり
千引の大岩なり
これより西二百米に道祖神あり
追谷坂と呼ぶ急坂を下れば
揖屋村谷に通ず
又東四百米に峠あり
夜見路超えとて
中意東馬場に通ずる古道あり
ここの神を
塞坐黄泉戸大神なり
伊邪那岐命が黄泉国から還ろうとしたとき、追って来る悪霊邪鬼を桃子で撃退した坂であり、大穴牟遅神(後の大国主神)
が黄泉国で須佐之男命の課す様々な試練を克服し、妻の須勢理毘売と共に還ろうとしたとき、須佐之男命が追い至って、
大国主神の名を与え国作りを託したのもこの坂です。
その場所については「故、其のいわゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふなり」と記しています。
碑の西方の山道がこの伊賦夜坂と言われており、途中に塞の神が祀ってあります。 『日本書紀』に、
伊弉諾尊が黄泉比良坂で 「ここから入って来てはならぬ」と言って投げた杖から出現した神であると記されています。
地元では、この道を通るときは
塞の神に小石を積んで通るという風習があり、今でも小さな石が積まれています。
黄泉(あの世)の国と現世の境界の地として古事記上巻に、伊邪那岐(いざなぎ)命が先立たれた最後の妻、伊邪那美(いざなみ)命を慕って黄泉の国を訪ねて行かれた入り口が、
この地(黄泉比良坂)であるとされている。別名「伊賦夜坂」の起源でもある。昭和15年に「神蹟黄泉比良坂伊賦夜坂伝説地」と刻んだ石碑が設立された。
御朱印
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